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みんな幸せになればいい

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批判とは何か

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「批判すべきではない」
「批判はしてもいい、むしろすべきだ」
「ありがたい批判もあるし、悪意ある批判もある」
「知り合いからの批判は愛のムチだと思うけど、知らない人から批判されても……」
などという議論がよく見られる。

恐らく、「批判」という言葉をきちんと理解できていれば、そのような議論や混乱は起きない。

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この世にはいろんな単語があり、微妙に異なる意味合いを表現するためには語彙力が必要だ。
しかし、活字離れの影響なのか知らないが、様々な単語の意味を大雑把に分類し、ニュアンスの異なる単語も一括りに同じ意味として捉え、言葉の意味を取り違えてしまう人が少なくない。
だから、お互いの主張が正しいのに、というより突き詰めれば同じ主張をしているのに、伝わらない・理解できないために無駄な言い争いが起きるのだ。

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Instagramショッピング機能を比較してみる

Instagramの画像にタグ付けされたリンクから商品ページへ飛べる機能が「ShopNow」として既に海外で開始されていましたが、2018年6月5日から日本でも「Instagramショッピング機能」として開始されました。

Instagramは写真で魅力を伝えられるサービスなので、商品のプロモーションをするのにはうってつけのツールに思えますが、これまではプロフィール欄のURL以外、投稿のキャプションにURLを記入しても他サイトに飛べないようになっていました。
しかしInstagramショッピング機能が使えるようになれば、スムーズに販売ページへ移動することができます。

Instagram
開発元:Instagram, Inc.
無料
posted withアプリーチ

私gatamaroは、BASESTORES.jpCreemaminneBOOTHでオリジナルグッズを販売していて、Instagramも利用しています。

今回、私が利用しているサービスの中でも、2018年6月5日にBASEminne、一足遅れて6月11日Creemaで、Instagramショッピング機能が利用可能になりました。

※6月13日(この記事を描き終えて公開した直後)、STORES.jpでも開始したとのメールが届きましたので追記しています。

これは利用しなければ! と思いましたが、

サービスによって連携方法や内容の違いがあるのだろうか?
複数のサービスで連携できるのだろうか?

など不明点も多かったので、各サービスの情報を調べ、実際に承認待ちまでの工程を進めてみました。

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人を信じるとはどういうことか

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「裏切られた」
わりと軽々しく遣われる言葉だ。

信用していた人が敵側に寝返ったとか、約束や契約を守らなかったというなら、わかる。
期待されていることを知っていて「あなたのご期待に添えるように頑張りますよ!」と言っていた人が実際はなんの努力もしていなかったとか、長年親友として親密にしていた人が失踪して借金を肩代わりさせられたとかなら、わかる。

でも、
「『あの人は優しそうだから良い人なんだろうな、こういうことをしてくれるんじゃないかな』という期待をしていたら、思っていたのと全然違う行動をした。期待通りのことをやってくれなかった。」
それを「あの人に裏切られた」と言うのには個人的に違和感を覚える。

「裏切る」という言葉は「信頼や期待や予想に反する」という意味でも辞書に載っているが、「期待を裏切る」「予想を裏切られた」という日本語表現として遣うならともかく、誰かに勝手に期待しておいて応えてもらえなかったときに被害者面で「あいつに裏切られた!」と言うのは違う気がする。

約束や契約をわざと破られた場合。日頃のやりとりの積み重ねによって互いを理解したうえで培われる信頼関係を踏みにじられた場合。あるいは、期待されている側が(誰かの利己的なものでなく、真っ当な)信頼・期待を寄せられていると自覚していたにも関わらず背いた場合にこそ、「裏切られた」と言うべきではないのか。

✦  ✦  ✦

密かに期待するのは自分勝手

「Aさんは優しそうだから、きっと私に声をかけてくれるだろう」
「Aさんは几帳面そうだから、助言しなくてもきちんと仕事をこなしてくれるだろう」
例えば私がAさんに対してこのような期待を抱いたとする。
もしAさんが私の期待と異なった行動をとったとしても、それは私が勝手に期待していたことで、私の予想が外れただけ。
別にAさんは私を裏切ろうとして裏切ったわけでもないし、期待されていたことすら知らない。Aさんは何も悪くないのだ。
Aさんが知らないところで勝手な理想を押し付け、勝手にガッカリしている私に問題がある。

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きっと沢山の「面白い」を見逃している

「面白い」に気づくために

  • 受け入れられないのは、よく知らないからかもしれない
  • 違和感・不快感を覚えるのは、経験不足で慣れていないからかもしれない
  • みんな爆笑しているのに自分だけ意味がわからないのは、知識不足のせいかもしれない

 

私は今までずっと、ひとつのものに愛着を持って同じものを使い続けるタイプで、場合によっては壊れても同じものを買い直すほどだった。
学生の頃に初めて持った携帯電話は社会人になっても使い続け、5年くらい愛用していた。通信事業者から「それ、近いうち廃止される通信システムにしか対応してないから、いい加減そろそろ機種変更してくれ」というような通知が来て、仕方なく新しいものに買い替えた。

愛着と言えば聞こえはいいが、正直言えば新しいことを覚えるのが億劫だったり、新しいものに挑戦するのが怖い、失敗したくない、だから慣れたもので安心していたいという気持ちが強かった。スマホに限らず、なんでも。私は波乱より平凡な人生を望むタイプなので、冒険が苦手で、慣れたものに囲まれて安心してしまいがちだった。

しかし最近は考えを改めて、少しずついろんなものに手を出してみるよう心がけている。今まで避けてきたジャンルの音楽や映画、自分には無理かなぁと思っていた音声配信やブログ執筆、テーマパークで怖くて乗れなかったアトラクションなど、本当にちょっとしたことから少しずつ。
できるだけいろんなものを見たり聞いたり使ったり挑戦したり、たくさんの経験をしたほうが、人生豊かになるなと気づいたから。
それは、単純に「できることが増える」とか「いろんなことをする充実感」だけの話ではなくて。
経験や知識が増えると、その分 「楽しい」と感じることが増える な、と実感している。

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「普通」とは何か② 感化/同調圧力/許容

«「普通」とは何か① 主観/知識量/刷込

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普通とは何か②

✦  ✦  ✦

「普通じゃない」とか「恥ずかしい」という感覚は、自分で勝手に思い込むだけでなく、親や周囲の人から植え付けられることも多い。

日本で素っ裸で歩いていたら逮捕されてしまうし、まず恥ずかしくてそんなことはできない。
でも、どこかの民族は女性も上半身裸で暮らしている。
もし自分がその民族として生まれたら、きっとその民族の「普通」の通り、裸で生きていたんだろう。

裸で暮らす少数民族は、誰も「女が上半身を見られるのは恥ずかしいことだ」と言わない、思わないからこそみんな隠そうとしない。それが普通なわけで。
同じように、身近にバカにする人が存在せず、バカにされたことがないこと、当たり前にやっていることは、「こんなことをしたらバカにされるだろうか……」という恥じらいもないし、バカにしようという発想にもならない。
誰かがバカにしたり、それは恥ずかしいことなんだよと教えるからこそ、人は「恥ずかしい」と感じるようになる。

「まだそんなことしてるの? 今の時代は○○だよ」
という言葉だけを浴びていると、どんどん新しいものを吸収していかないとダメなんだ、古いままでいるのはダサいのだ、と思うようになりやすい。
「好きなものがコロコロ変わるミーハーな奴は薄っぺらい人間だ」
というような、変化を悪く言う人しか周りにいないと、変わることに罪悪感を抱き、ずっと変わらない人や物に魅力を感じ、すぐ最先端のものに飛びつく人を「見ていて恥ずかしい」と思うようになりやすい。
方言と同じで、周りに「そういう人しかいない」状況では、他の考え方の存在を知ることができない。自分から新しい考え方を生み出すのは、無理とは言わないがとても難しい。周りと違う考えを持つとしたら、どこかしらでその新しい考え方を見聞きしたことによるのではないだろうか。

今はインターネットが普及しているので、自分の身近な人がみんな同じことを言っていても、世の中には違う感覚の人もいると知ることができる。しかし逆に、インターネットから「これが普通だ」という偏った考えを得ることも多くなる。
TwitterSNSでは自分の好きな分野に関わる人、考えの似た人をフォローすることも多い。「フォローしている "みんな" がこう言っているから、これが正しいのだ」と思っても、実はそう主張しているのはその人たちだけで、狭いコミュニティでしか通用しない話だったりする。大勢が利用するインターネットであるために、「多くの人が主張している」と感じることが実際にはごく一部の人の騒ぎでしかない場合がある。

誰かがよかれと思って、あるいは悪意を持って、「これが普通ですよ、常識ですよ」「それはおかしいことだよ、誰もやってないよ、やらないほうがいい、普通じゃない、恥ずかしいことだよ」と偏った考えを教えてくる。「へぇ知らなかった、そうなんだぁ」と信じ込み、偏見や嫌悪感が知らぬ間に植え付けられてしまうことは意外に多いと思う。
もちろん教えてもらってありがたいこともある。しかし「おかしいこと」と教わった中には、本当はやっても構わないこと、恥じる必要のないこともあるだろう。
知らないうちに間違った教えに染められていることが、きっと沢山ある。

あれもこれもダメ、
そういうことは恥ずかしいからやめなさい、
男(女)らしくしなさい、
失敗するのは恥ずかしいことだ、
こんなことも出来ないなんて恥ずかしくないの、
実現不可能な大それた夢を語るのは恥ずかしいことだよ、
そんなことをしてたらバカにされるよ、笑われるよ……
といった言葉を浴びせられながら育った子どもと、

何かできなくても失敗してもバカにされず、
対象性別が違う玩具を選んでも否定されず、
肯定的な言葉を浴びながら自由に育った子どもでは、

恥ずかしさを感じる範囲、物事の許容範囲がだいぶ違ってくるのではないかと思う。

実際、私が前者、私の同居人は後者のような家庭環境だった。そしてまさに私は人目を非常に気にする恥ずかしがり屋の臆病者。同居人は失敗してもあっけらかんとしていて、人目を恐れない自由人。
ただの一例にすぎないので必ずそうなるとは断言しないけど、生まれ育った環境や周囲の人物の言動は大いに影響する、と私は思っている。

「普通」は、周囲から吹き込まれる。

✦  ✦  ✦

あんな派手な格好をするのはバカみたいだ。
中卒なんて。
いい歳して結婚できないなんて。

私が今まで複数回聞いたことのある悪口のほんの一部だ。こういう考えって、誰かから植え付けられなくても、自然に湧き出てきただろうか?
何を着ようが、進学しようが働こうが、結婚しようがしまいが、個人の自由であるはず。本当はもっと個性的なファッションを楽しみたいのに、本当は高校に通って勉強するよりも専門的な技術を身につけるために働きたいのに、おかしいと騒ぐ人がいるから避けて通るようになる。特に恥ずべきことでもないのに、恥ずかしくなったり、隠したくなったりする。

「こうするのが普通だよ」「それはおかしいよ、笑われるよ」と言ってくる人は、必ずしもバカにしているわけではない。悪意なく、別の場面で恥をかかないようにと親切心で教えてくれる人もいる。
ただしその内容が正しいかどうかは、親切かどうかとは無関係。これまで書いてきたような、主観や知識量などにより、偏った認識をしている場合がある。

ときどき、「『こういうことをするとバカにしてくる人がいるよ』って言ってくる奴自体がバカにしていなければ、まず『バカにされる』という発想をしない」などと言う人がいる。
確かに、自分が思ったことを第三者が言っているかのように伝える卑怯な人もいる。しかし、自分がバカにされたことがあったり、バカにしている/されている人を見たことがあったりする経験から、「こういうことをするとバカにされるのだ」と学習することも多い。その経験がある人は、嘲笑されることの恥ずかしさ、みじめさ、嫌な気持ちを知っているからこそ、親切心で教えてくれようとする。

ただ、「笑われる」「バカにされる」「誰もそんなことしない」ようなことは、「いけない」「おかしい」こととは別物なのではないか。

みんながやっている。
誰もやっていない。
みんなに合わせないと悪く言ってくる人がいる。

そういう同調圧力で、周りと違うことを堂々とやるのが難しい世の中になっている。そうしてその道に参入しづらくなり、少数派は更に少数派になっていく。多数派が「普通」として権限を握る。
しかし、少数派であることが、バカにされるほどおかしいことだろうか?

人に言われたわけじゃなく、自分で何かを「おかしい」と判断したとき、それは近所の小学生(「普通」とは何か① 知識量の話に登場)のように「見たことがない、身近にそんな人はいない、珍しい=おかしい」と安直に結びつけてしまっている可能性がある。
自分の知識が足りないだけで、世の中では特に珍しいことではないかもしれない。
実際に珍しい物事だとしても、「珍しい」と「おかしい」は必ずイコールで結べるものではない
希少価値が高いもの、秀でたものである場合もあれば、特別良いわけでも悪いわけでもなく選択肢のひとつ、というだけの場合もある。

「そういう人もいる」「そういう考え方、やり方もある」と考えるだけで、全てが肯定される。

(もちろん、危険思想だとか犯罪だとか、命に関わることや迷惑行為、間違っていることについては話が別。裸族でない私たちは露出してはいけないし、みんなが気持ちよく暮らせるための法や倫理を守ることは大切だし、誤りは正すべき。それを大前提としたうえで、個々の価値観や考え方や感覚や習慣や趣味嗜好や人生の選択についてのおはなし。)

「知らない、珍しい=おかしい」ではなく、「そういうものもあるんだ」と新しい情報を吸収したり、「自分は同意できないけど、そういう考え方する人もいるんだな」と存在を否定せず受け入れられる心の余裕があると、固定観念や偏見を持つこともなく、人間関係も悪くならず、生きやすいと思う。

✦  ✦  ✦

ここまでのことをまとめると、自分の中の「普通」という固定観念を壊して許容範囲を広げるために必要なのは、

  • 自分の感覚はあくまで主観であることを自覚する
  • 知識量を増やす
  • 沢山のことを経験する
  • 誰かから聞いた話を鵜呑みにしない
  • 人目を気にしない
  • なんでもかんでも否定せず、「それもアリ」と受け入れてみる

ということになる。

全てを完全にクリアできたら、恐らく許容範囲は無限に広がると思う。が、そんな完璧な人間はなかなか存在しないだろう。
しかし、全てとはいかなくても、いくつか気をつけるだけで、だいぶ世の中の見え方が変わってくると思う。

まずは、初めて見るもの、自分にとって珍しいものを「変だ」と感じたら
自分が無知なだけなのでは?
自分の許容範囲が狭いだけなのでは?」と、一旦立ち止まる冷静さがあるといい。


いろんな物事を許容できる世の中なら、みんな幸せになれる。

 

✦  ✦  ✦

まぁこの記事だって筆者の主観なんですけれども。

「普通」とは何か① 主観/知識量/刷込

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昔から家族みんなでやっていることを、他の家でも当たり前にやるものだと思っていたら自分の家族だけだった、というエピソードを時々耳にする。

普段通りに喋っていたら、他の地方の人から「訛ってるね」「方言で言われてもわからない」と指摘され、初めて自分の言葉が標準語ではないと知ることもある。

自分の生活圏の中でしか通用しない「普通」がある。

一般的なこと。珍しくないこと。"みんな" がやっていること。
その判断をするのは、その人の主観
本当に一般的なのか、本当に珍しくないことなのか、"みんな" とはどの程度の人数なのか。

本当に世の中にとって「普通」なのか、個人ではなかなか確認できない。

自分がよく見聞きすること。
自分が何度も経験していること。
身近な範囲の物事がその人の「普通」になる。

自分は今までそんなものを見たことがない。
自分の周りにそんなことをする人はいない。
そういったものを「普通じゃない」と判断する。

「普通」は本人の中の基準でしかない。

✦  ✦  ✦

小学校や公園のすぐ近くに住んでいた頃、子どもたちの声がよく聞こえた。
大人に比べれば経験や知識量が少ない小学生たちは、大して珍しくもないものを
「初めて見る、珍しい=おかしい、気持ち悪い」
と認識して、笑ったりバカにしたりしていた。大人にとってはなんでもない単語の響きが彼らにとってはおかしくて、大声で連呼しては爆笑してみたりとか。
思い出してみると、確かに小学生時代には「変だ」と感じる物事が多かった。ループタイというものを知らなくて、「先生がネクタイの代わりに変な紐つけてる」と思ったのを覚えている。
知らないものは変に見えるのだ。「何それ、変なの」と言うとき、場合によっては自分の無知を露呈することになる。

大人になっても知識や経験を増やさないままでいると、「異常」へ振り分けられるものがとてつもない量になってしまう。
「自分の周りでは見られないことでも、日本全国・世界全体を見たらありふれたこと」が存在するのを知らなければ、なんの変哲もないものを「変だ」と拒絶し、子どもの頃に許容したもの以外を受け入れられなくなる。そうやってなんでもかんでも否定していくと、許容できるものが少ないので、居場所がなくなってどんどん窮屈になっていくだろう。自分の世界を狭めることになる。

先日放送終了した「隣の家族は青く見える」というドラマの中では、不妊治療やLGBT、子どもが欲しいと思わない事実婚夫婦、毒親など、世間でなかなか理解されにくい事柄が扱われていた。娘が不妊治療をしていること、息子がゲイであることを知ったそれぞれの親たちは、それがどういうことなのかよく知らないまま反対し、拒絶する。
よくわからないことは、自分の想像で勝手にイメージを補強してしまいがち。知らないからこそ異様に思えて、必要以上に恐れたり、嫌悪感を抱いたりする。知識を得て理解してみれば、勝手に想像していたのとは全く違い、おかしくもなんともないと気づける場合がある。

「普通」は、個人の知識量に左右される。

✦  ✦  ✦

ヒヨコの刷り込みのように、最初に学んだこと、慣れ親しんだものを「普通」と思い、それ以外を受け入れにくいことがある。

家でハンバーグを食べるときに必ずナイフとフォークを使う家庭で育った人は、初めて入った騒がしい定食屋に割り箸しかないのを知って驚くだろうし、逆にナイフなど使わないような家庭で育つと、初めての高級レストランは堅苦しく、礼儀作法にもうるさくてかしこまりすぎていると感じるだろう。
しきたりを重んじて細かい作法まできちんと守らねばならない、という教えを受けていると、守らない人のことを「教養がない。この程度のことも知らないのか」と思う。逆の立場からすれば、「形式にばかりこだわりすぎている。形より気持ちが大切なのに」と思う。

ずっとクラシック音楽を嗜んで生きてきた人が初めてヘビメタを聴いたら雑音としか思えないだろうし、X JAPANYOSHIKIさんのドラムのテンポに慣れている人が初めてG線上のアリアなんか聴いたら「これ、曲?」ってなると思う。
もちろん、嫌悪感を抱くとは限らず、今まで知らなかったものの珍しさ、異様さに惹かれて興味をもつ、好きになるということもあり得る。それでもやっぱり最初は「なんだこれは」という違和感から入るんじゃないだろうか。

「エンタテイメント」「エンタテイメント」などの表記ゆれ、「行う」「行なう」などの送り仮名など、実はどちらでもよいとされているものでも、初めて見たり学んだりしたほうを自分の中の基準にしていたりしないだろうか。(私は「行う」が正しいと学校で習ったが、「行なう」が完全に間違いとも言えないらしい。)

また、ら抜き言葉を間違いだと教わってきた年代、ら抜き言葉に抵抗がある人でも、「行かれない」を「『行けない』だろ」と訂正させたりすることがある。
古い、元の形を正しいとするなら、「行かれない」のほうが正しく、「行けない」は誤り(一時期Twitterで話題になった「ar抜き言葉」)になってしまう。
結局、言葉の乱れにうるさいわけではなく、自分に馴染み深いものは受け入れ、それ以外を認めないというだけのこと。
ら抜き言葉が普通だと思って生きている若者が「『ら』を入れたら敬語になっちゃうじゃん」「『ら』を入れるのは古い」と思うのと同じ感覚なのだと思う。

自分が最初に知ったもの、慣れているもの以外には違和感を覚えるものだ。

「普通」は、親しみ具合によって変化する。

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「普通」とは何か② 感化/同調圧力/許容  に続く »