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みんな幸せになればいい

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きっと沢山の「面白い」を見逃している

「面白い」に気づくために

 

私は今までずっと、ひとつのものに愛着を持って同じものを使い続けるタイプで、場合によっては壊れても同じものを買い直すほどだった。
学生の頃に初めて持った携帯電話は社会人になっても使い続け、5年くらい愛用していた。通信事業者から「それ、近いうち廃止される通信システムにしか対応してないから、いい加減そろそろ機種変更してくれ」というような通知が来て、仕方なく新しいものに買い替えた。

愛着と言えば聞こえはいいが、正直言えば新しいことを覚えるのが億劫だったり、新しいものに挑戦するのが怖い、失敗したくない、だから慣れたもので安心していたいという気持ちが強かった。スマホに限らず、なんでも。私は波乱より平凡な人生を望むタイプなので、冒険が苦手で、慣れたものに囲まれて安心してしまいがちだった。

しかし最近は考えを改めて、少しずついろんなものに手を出してみるよう心がけている。今まで避けてきたジャンルの音楽や映画、自分には無理かなぁと思っていた音声配信やブログ執筆、テーマパークで怖くて乗れなかったアトラクションなど、本当にちょっとしたことから少しずつ。
できるだけいろんなものを見たり聞いたり使ったり挑戦したり、たくさんの経験をしたほうが、人生豊かになるなと気づいたから。
それは、単純に「できることが増える」とか「いろんなことをする充実感」だけの話ではなくて。
経験や知識が増えると、その分 「楽しい」と感じることが増える な、と実感している。

 

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受け入れられないのは、よく知らないからかもしれない

「普通」とは何か でも書いたことだけど、なんであれ知っているもののほうが、初めて見聞きしたものよりも安心感や親近感を持ち、容認しやすいものだ。
初めての体験や初めて見聞きするもの、よく知らないものは、時には魅力的に感じて興味を惹かれる場合もあるが、警戒したり不快感を覚えたり、受け入れられなかったり、実行を躊躇したりすることも多い。例えば仮想通貨とか、発展途上国への旅行とか、脱サラとか、昆虫を食べるとか。
敵か? 危険なものか? 失敗しないか? と警戒するのは生き物として当たり前。
でもそこで全て「知らないから排除!!」と、珍しいものを認めないでいると、生活の彩りが損なわれてしまうのではないかと思う。
結果として自分には不要と判断するにしても、少し調べてみれば「難しそうに見えたけど簡単なんだな」「気持ち悪そうだけど美味しいらしい」とかいうことがわかってくることもある。よくわからなかったから胡散臭く見えただけで、実際にはそこまで嫌悪するようなことではなかったりする。

よく知れば許容できることが増える。
経験や知識が少ないほど、許容できるものが減ってしまう
ということだ。

何かの趣味に没頭している人がいて、その趣味が自分にとって魅力的とは思えないときに「何が楽しいのかさっぱり解らない」と白い目で見る人がいる。もしかしたら自分にその魅力を見出す力、理解する力がないだけかもしれない、なんて想像もしない。もし自分がそれを始めたら夢中になる可能性だってあるだろうに、頭ごなしに否定してしまう。そうやって、世の中にあるものの大部分を受け入れられず、自分が受け入れられないものに熱中する人を見下し、毎日退屈でつまらないと嘆く人を知っている。勿体ないなと思う。

いろんなことに興味を持って、何事も恐れずに先陣を切る人もいる。そういう方はきっと、もともと許容範囲が広いのだと思う(人によっては警戒心がなさすぎるだけかもしれないが)。いろんなものを肯定的に見られて、いろんなことが出来るからきっと人生楽しいと思う。いろんな挑戦をすれば失敗もあるだろうけど、少なくとも「人生退屈でたまらん」とは思わないんじゃないかな。

嫌だ・怖い・気持ち悪い・イライラするといった感覚は、できるなら味わわずに生きていたい。と私は思っている。
許容範囲が狭いと、そういう不快な気持ちになりやすくなってしまう。逆に言えば、いつもいつも小さなことでイライラしている人は許容範囲が狭い。
不快な気持ちや恐怖心を最小限にして、物事をなるべく肯定的に見るには、許容範囲を広くすること。許容範囲を広げるためには、経験や知識を増やすことが不可欠だと私は思う。

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違和感・不快感を覚えるのは、経験不足で慣れていないからかもしれない

幼稚園生くらいの頃までは、赤! 青! というわかりやすい色、原色のような鮮やかな色に慣れ親しんでいた。
与えられる画用紙やクレヨンも、幼児向けの絵本やアニメの色使いも、認識しやすい鮮やかで単純な色ばかりだった。
徐々に微妙な違いを認識できるようになると、私はピンクやエメラルドグリーンやコバルトブルーが好きだと言い始め、パステルカラーも淡くてきれいだなぁとか、とにかく幼い頃は彩度の高い色こそ美しいと思っていた。
スグリーンやアッシュブラウンなど、濁った、くすんだ、暗い色の魅力が全くわからず、汚い……というイメージしかなかった。
しかし今となってはくすんだ色のほうが逆にカッコイイと思うようになって、モスグリーンのジャケットなんか何にでも合わせやすくて重宝している。
昔は良さがわからなかったのに、今では良いと思える。これは許容範囲が広がっているということじゃないかなと思う。

味覚も同じ。
昔はお子様ランチで喜んでいたのに、とあるキッカケで大人になってから食べてみて驚いた。あまりにも味が素朴すぎて、なんの癖もない。こんなもので満足していたのかと不思議な気持ちになった。
山椒・わさび・辛子・生姜・タバスコなどの苦味や辛味は、子どもの頃には違和感でしかなかったが、今になっては無いと物足りないものになっている。
ごまプリンや抹茶アイスなどの濁りや渋味も良さがわからず、幼い頃は絶対選ばなかった。

単純なものにしか魅力を感じなかったのに、今は複雑なものの魅力がわかる。
経験や知識を重ねることで、理解できるものが増えたということだろう。

あくまで例えばの話。もちろん人それぞれ好き嫌いはあるだろうから、抹茶アイスの美味しさがわからない奴はお子ちゃまだ~と言いたいわけではない。ピンポイントで自分に当てはまらないところがあるからといって自分が悪く言われたと誤解しないでほしい。

赤ちゃんの頃は誰だって無知なので、自然と経験や知識がどんどん吸収されていくのだけど、大人になると自分の意志で情報を取捨選択できるために「自分はコレが好きなのだ」と思い込み、それ以外を遮断してしまったりするのが厄介。思い込みや固定観念は許容範囲を狭める要因になる。


ニコニコ動画を見ていて、残念だなと思ったことがある。
誰かのジャジーなオリジナル曲で、かっこいい飾りのコードが鳴ったときに、「不協和音」「汚い」というコメントが流れていったのだ。
これがいいのに……わからないのかぁ、勿体ないなと思ってしまった。
恐らく、コメントした人はあまりジャズっぽい音楽を聴かないために聞き慣れない音だったのだろう。確かにポップスではあまり鳴らないような、ぐちゃっとした和音ではあった。
私がモスグリーンを「汚い」と思っていた時期があったように、実は自分が良さをわかっていないだけで、本当はそれこそが良い、味のある部分だったりするのだ。

正直、私もエレクトーンを習っていなかったら、それを不協和音としか思えなかったんだろうなと思う。
学生当時はJ-POPにしか興味がなく、自分からクラシックやジャズやラテンを聴こうとは思わなかった。エレクトーンの試験の課題曲としてクラシックを弾かなければならなかったり、ジャンルの違う曲も弾けるようになりましょうと先生に言われてしぶしぶ弾いていた。
新しくフュージョンを習い始め、楽譜を読みながら弾いていたとき「なんだこの和音、響きが変だな、楽譜が間違ってるのかなぁ?」と思ったことがあった。それが少しずつ「これがカッコイイんだな」とわかるようになってきて、わかると音楽も面白くなってくるもので。
習い始めは「知らない曲だし、好みじゃないし、嫌だなぁ」と思っていた曲が、弾けるようになると親しみを覚えて、良さもわかって、好きになっていたりすることがよくあった。

いろんな経験をしていろんな知識を身につけ、知らなかったものに「慣れる」ことによって、親近感が生まれたり、良さに気づいて好きになったり楽しくなったりする。
慣れないと、違和感は違和感のまま。
その違和感が実はアクセントであって、良さなのだとわかるためには、まず慣れるために経験を積むことが必要なのかも。

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みんな爆笑しているのに自分だけ意味がわからないのは、知識不足のせいかもしれない

 " あるあるネタ " がなぜ盛り上がるのかと言えば、「それ知ってる!」「わかるー!」と共感できるからだ。同じ経験をしていないとその面白さは共有できない。当然、その元となる経験が多ければ多いほど、「わかるー!」と思えることも増える。面白いと感じるためには、やはり経験や知識が必要なのだ。

芸人のネタや友達の話を面白いと思うかどうかは感性の違いにもよるのだが、周りの人が面白そうに笑っているのに、自分にはまずどこに笑いどころがあるのかすら判らない場合、笑っている人には元ネタとなる知識や情報があって、自分にはそれがないという可能性がある(「意味不明すぎて可笑しい」というシュールな笑いも増えているので、判断が難しいこともあるが)

「春は揚げ物」と書いてあるのを見てクスッとできるかどうかは、清少納言枕草子を知っているかどうかにかかっている。
元ネタを知らなければただの文章でしかなく、クスッとした人が何に笑ったのかもわからない。

元ネタあってのネタを理解できるかどうかは知識量に比例する。そして元ネタあってのネタは意外と世の中に溢れている。

例えば映画などの創作物には、パロディやオマージュがよく見られる(知識がないと、それらを「パクリ」と括ってしまったりする)。それらは、元ネタを知らない人が違和感を覚えないよう、さりげなく仕込まれていることも多い。だから同じ映画を観ていても人によって「面白い」と感じる回数が変わってくる。

全然面白くない、良さが解らない、意味が解らないという作品に出会ったときは、作品自体が駄作という可能性もあるが、自分がその作品を理解できるだけの知識が足りないという可能性もあることを忘れないようにしたい。
元ネタや題材が「知る人ぞ知る・わかる人だけわかればよい」みたいなものの場合もあるので、全てを理解できるようになれなんて言うつもりはさらさらない。神じゃないんだから何事にも限度はある。ただ、即座に駄作だと決めつけてSNSに作品の文句を書きなぐる前に、他の人はどういう感想を抱いたのか軽く検索するだけでも、「そんな視点から見る方法があったのか! それなら楽しめそうだ」と学べることがある。それが経験となり知識となり、次回に活かせるようになるのだ。

「気づくことができる」「理解できる」は「楽しい」「面白い」に繋がる。

登場人物たちの名前や行動が、聖書に登場する人物に基づいていたり。
別れの場面にショパンの「別れの曲」が流れてきたり。
天才がいきなり書き始める数式の意味がわかってしまったり。
そういうちょっとした楽しみは、知識の有無にかかってくる。

学校の勉強が将来何に役立つのか? と学生が疑問に思う気持ちはわかる。私もそうだった。
でも役に立つか立たないかだけで物事の価値を決めなくてもいいじゃないか。なんの役にも立たないけどただ楽しい、ということも世の中にはある。娯楽なんて大抵そんなものだ。

昔、「トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜」という番組があった。リアルタイムで観ていた身としてはレギュラー放送が終了してから12年も経つことに驚くばかりなのだが、役に立たない雑学を知って楽しむというこの番組はとてもバカげていて面白かった。Wikipediaによれば最高視聴率は27.7%らしい。とても人気があった。
ムダ知識だって、笑うネタになるのだ。役に立つかどうかに関わらず、笑えるって素晴らしいと思うの。

学校で勉強した知識のおかげで、「春は揚げ物」にクスッと笑うことができる。服を汚してしまってガッカリしたときに「汚れっちまった悲しみに」と呟けば、多少気持ちが和んだりすることもある。くだらないかもしれないが、ちょっと笑えることが沢山ある人生と、全然ない人生だったら、笑える人生を生きたいよ私は。

学んだことは将来の「面白い」に繋がる。教養のない人が表面だけ見て「つまんね」と切り捨てるような物事の、隠された奥深さに気づき、面白く感じることができる。それだけで勉強には意味があると思う。

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そういうわけで、できるだけ経験量・知識量をいっぱい持っているほうが、人生楽しめるだろうなと思っている(この世の全てを悟ってしまう域まで行ったら逆に毎日退屈かもしれないけど、そこまでの天才はなかなかいないだろうから考慮の外に置く)。

なんにも面白いことねぇなと思っていたら、実は自分の知識が少ないせいで面白いことに気づけていないだけということはあり得ると思う。むしろ実はすごく頻繁にあると思う。多分その「気づけていない」ことにすら気づけていないってことが、私の身にも知らないうちに沢山起きているんだろうな。

だから、インプットを怠らないようにしたい。自分でここまで書いていて気づいたけど、自分で調べることは大切だ。何事においても「わからない→怖い→拒否」「わからない→つまらない→酷評」では世界が狭まってしまう。わからないなら調べればいいのだ。どんなに調べても納得できないならともかく、自分に知識や理解力がないだけなのに、理解できないものを否定したり悪く言うのは間違っていると思う。

食わず嫌いは勿体ない。普段と違ったものを取り入れてみたり、何かしら勉強したり、今までやったことがなかったことに挑戦したりしよう。それ自体を楽しめたら最高だけど、楽しめなかったとしても、その経験と得た知識は未来の「知ってる!」「わかる!」に役立つ。

経験と知識は人生を楽しむうえで重要だと思う。

 

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まぁ、未だにiPhone5sを使ってるんですけどね。機種変したいんだけどバックアップがうまくいかないんだよなぁー