gatamaro-note

みんな幸せになればいい

gatamaro-note

「普通」とは何か① 主観/知識量/刷込

f:id:gatamaro:20180902115012j:plain


昔から家族みんなでやっていることを、他の家でも当たり前にやるものだと思っていたら自分の家族だけだった、というエピソードを時々耳にする。

普段通りに喋っていたら、他の地方の人から「訛ってるね」「方言で言われてもわからない」と指摘され、初めて自分の言葉が標準語ではないと知ることもある。

自分の生活圏の中でしか通用しない「普通」がある。

一般的なこと。珍しくないこと。"みんな" がやっていること。
その判断をするのは、その人の主観
本当に一般的なのか、本当に珍しくないことなのか、"みんな" とはどの程度の人数なのか。

本当に世の中にとって「普通」なのか、個人ではなかなか確認できない。

自分がよく見聞きすること。
自分が何度も経験していること。
身近な範囲の物事がその人の「普通」になる。

自分は今までそんなものを見たことがない。
自分の周りにそんなことをする人はいない。
そういったものを「普通じゃない」と判断する。

「普通」は本人の中の基準でしかない。

✦  ✦  ✦

小学校や公園のすぐ近くに住んでいた頃、子どもたちの声がよく聞こえた。
大人に比べれば経験や知識量が少ない小学生たちは、大して珍しくもないものを
「初めて見る、珍しい=おかしい、気持ち悪い」
と認識して、笑ったりバカにしたりしていた。大人にとってはなんでもない単語の響きが彼らにとってはおかしくて、大声で連呼しては爆笑してみたりとか。
思い出してみると、確かに小学生時代には「変だ」と感じる物事が多かった。ループタイというものを知らなくて、「先生がネクタイの代わりに変な紐つけてる」と思ったのを覚えている。
知らないものは変に見えるのだ。「何それ、変なの」と言うとき、場合によっては自分の無知を露呈することになる。

大人になっても知識や経験を増やさないままでいると、「異常」へ振り分けられるものがとてつもない量になってしまう。
「自分の周りでは見られないことでも、日本全国・世界全体を見たらありふれたこと」が存在するのを知らなければ、なんの変哲もないものを「変だ」と拒絶し、子どもの頃に許容したもの以外を受け入れられなくなる。そうやってなんでもかんでも否定していくと、許容できるものが少ないので、居場所がなくなってどんどん窮屈になっていくだろう。自分の世界を狭めることになる。

先日放送終了した「隣の家族は青く見える」というドラマの中では、不妊治療やLGBT、子どもが欲しいと思わない事実婚夫婦、毒親など、世間でなかなか理解されにくい事柄が扱われていた。娘が不妊治療をしていること、息子がゲイであることを知ったそれぞれの親たちは、それがどういうことなのかよく知らないまま反対し、拒絶する。
よくわからないことは、自分の想像で勝手にイメージを補強してしまいがち。知らないからこそ異様に思えて、必要以上に恐れたり、嫌悪感を抱いたりする。知識を得て理解してみれば、勝手に想像していたのとは全く違い、おかしくもなんともないと気づける場合がある。

「普通」は、個人の知識量に左右される。

✦  ✦  ✦

ヒヨコの刷り込みのように、最初に学んだこと、慣れ親しんだものを「普通」と思い、それ以外を受け入れにくいことがある。

家でハンバーグを食べるときに必ずナイフとフォークを使う家庭で育った人は、初めて入った騒がしい定食屋に割り箸しかないのを知って驚くだろうし、逆にナイフなど使わないような家庭で育つと、初めての高級レストランは堅苦しく、礼儀作法にもうるさくてかしこまりすぎていると感じるだろう。
しきたりを重んじて細かい作法まできちんと守らねばならない、という教えを受けていると、守らない人のことを「教養がない。この程度のことも知らないのか」と思う。逆の立場からすれば、「形式にばかりこだわりすぎている。形より気持ちが大切なのに」と思う。

ずっとクラシック音楽を嗜んで生きてきた人が初めてヘビメタを聴いたら雑音としか思えないだろうし、X JAPANYOSHIKIさんのドラムのテンポに慣れている人が初めてG線上のアリアなんか聴いたら「これ、曲?」ってなると思う。
もちろん、嫌悪感を抱くとは限らず、今まで知らなかったものの珍しさ、異様さに惹かれて興味をもつ、好きになるということもあり得る。それでもやっぱり最初は「なんだこれは」という違和感から入るんじゃないだろうか。

「エンタテイメント」「エンタテイメント」などの表記ゆれ、「行う」「行なう」などの送り仮名など、実はどちらでもよいとされているものでも、初めて見たり学んだりしたほうを自分の中の基準にしていたりしないだろうか。(私は「行う」が正しいと学校で習ったが、「行なう」が完全に間違いとも言えないらしい。)

また、ら抜き言葉を間違いだと教わってきた年代、ら抜き言葉に抵抗がある人でも、「行かれない」を「『行けない』だろ」と訂正させたりすることがある。
古い、元の形を正しいとするなら、「行かれない」のほうが正しく、「行けない」は誤り(一時期Twitterで話題になった「ar抜き言葉」)になってしまう。
結局、言葉の乱れにうるさいわけではなく、自分に馴染み深いものは受け入れ、それ以外を認めないというだけのこと。
ら抜き言葉が普通だと思って生きている若者が「『ら』を入れたら敬語になっちゃうじゃん」「『ら』を入れるのは古い」と思うのと同じ感覚なのだと思う。

自分が最初に知ったもの、慣れているもの以外には違和感を覚えるものだ。

「普通」は、親しみ具合によって変化する。

✦  ✦  ✦

「普通」とは何か② 感化/同調圧力/許容  に続く »