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「普通」とは何か② 感化/同調圧力/許容

«「普通」とは何か① 主観/知識量/刷込

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普通とは何か②

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「普通じゃない」とか「恥ずかしい」という感覚は、自分で勝手に思い込むだけでなく、親や周囲の人から植え付けられることも多い。

日本で素っ裸で歩いていたら逮捕されてしまうし、まず恥ずかしくてそんなことはできない。
でも、どこかの民族は女性も上半身裸で暮らしている。
もし自分がその民族として生まれたら、きっとその民族の「普通」の通り、裸で生きていたんだろう。

裸で暮らす少数民族は、誰も「女が上半身を見られるのは恥ずかしいことだ」と言わない、思わないからこそみんな隠そうとしない。それが普通なわけで。
同じように、身近にバカにする人が存在せず、バカにされたことがないこと、当たり前にやっていることは、「こんなことをしたらバカにされるだろうか……」という恥じらいもないし、バカにしようという発想にもならない。
誰かがバカにしたり、それは恥ずかしいことなんだよと教えるからこそ、人は「恥ずかしい」と感じるようになる。

「まだそんなことしてるの? 今の時代は○○だよ」
という言葉だけを浴びていると、どんどん新しいものを吸収していかないとダメなんだ、古いままでいるのはダサいのだ、と思うようになりやすい。
「好きなものがコロコロ変わるミーハーな奴は薄っぺらい人間だ」
というような、変化を悪く言う人しか周りにいないと、変わることに罪悪感を抱き、ずっと変わらない人や物に魅力を感じ、すぐ最先端のものに飛びつく人を「見ていて恥ずかしい」と思うようになりやすい。
方言と同じで、周りに「そういう人しかいない」状況では、他の考え方の存在を知ることができない。自分から新しい考え方を生み出すのは、無理とは言わないがとても難しい。周りと違う考えを持つとしたら、どこかしらでその新しい考え方を見聞きしたことによるのではないだろうか。

今はインターネットが普及しているので、自分の身近な人がみんな同じことを言っていても、世の中には違う感覚の人もいると知ることができる。しかし逆に、インターネットから「これが普通だ」という偏った考えを得ることも多くなる。
TwitterSNSでは自分の好きな分野に関わる人、考えの似た人をフォローすることも多い。「フォローしている "みんな" がこう言っているから、これが正しいのだ」と思っても、実はそう主張しているのはその人たちだけで、狭いコミュニティでしか通用しない話だったりする。大勢が利用するインターネットであるために、「多くの人が主張している」と感じることが実際にはごく一部の人の騒ぎでしかない場合がある。

誰かがよかれと思って、あるいは悪意を持って、「これが普通ですよ、常識ですよ」「それはおかしいことだよ、誰もやってないよ、やらないほうがいい、普通じゃない、恥ずかしいことだよ」と偏った考えを教えてくる。「へぇ知らなかった、そうなんだぁ」と信じ込み、偏見や嫌悪感が知らぬ間に植え付けられてしまうことは意外に多いと思う。
もちろん教えてもらってありがたいこともある。しかし「おかしいこと」と教わった中には、本当はやっても構わないこと、恥じる必要のないこともあるだろう。
知らないうちに間違った教えに染められていることが、きっと沢山ある。

あれもこれもダメ、
そういうことは恥ずかしいからやめなさい、
男(女)らしくしなさい、
失敗するのは恥ずかしいことだ、
こんなことも出来ないなんて恥ずかしくないの、
実現不可能な大それた夢を語るのは恥ずかしいことだよ、
そんなことをしてたらバカにされるよ、笑われるよ……
といった言葉を浴びせられながら育った子どもと、

何かできなくても失敗してもバカにされず、
対象性別が違う玩具を選んでも否定されず、
肯定的な言葉を浴びながら自由に育った子どもでは、

恥ずかしさを感じる範囲、物事の許容範囲がだいぶ違ってくるのではないかと思う。

実際、私が前者、私の同居人は後者のような家庭環境だった。そしてまさに私は人目を非常に気にする恥ずかしがり屋の臆病者。同居人は失敗してもあっけらかんとしていて、人目を恐れない自由人。
ただの一例にすぎないので必ずそうなるとは断言しないけど、生まれ育った環境や周囲の人物の言動は大いに影響する、と私は思っている。

「普通」は、周囲から吹き込まれる。

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あんな派手な格好をするのはバカみたいだ。
中卒なんて。
いい歳して結婚できないなんて。

私が今まで複数回聞いたことのある悪口のほんの一部だ。こういう考えって、誰かから植え付けられなくても、自然に湧き出てきただろうか?
何を着ようが、進学しようが働こうが、結婚しようがしまいが、個人の自由であるはず。本当はもっと個性的なファッションを楽しみたいのに、本当は高校に通って勉強するよりも専門的な技術を身につけるために働きたいのに、おかしいと騒ぐ人がいるから避けて通るようになる。特に恥ずべきことでもないのに、恥ずかしくなったり、隠したくなったりする。

「こうするのが普通だよ」「それはおかしいよ、笑われるよ」と言ってくる人は、必ずしもバカにしているわけではない。悪意なく、別の場面で恥をかかないようにと親切心で教えてくれる人もいる。
ただしその内容が正しいかどうかは、親切かどうかとは無関係。これまで書いてきたような、主観や知識量などにより、偏った認識をしている場合がある。

ときどき、「『こういうことをするとバカにしてくる人がいるよ』って言ってくる奴自体がバカにしていなければ、まず『バカにされる』という発想をしない」などと言う人がいる。
確かに、自分が思ったことを第三者が言っているかのように伝える卑怯な人もいる。しかし、自分がバカにされたことがあったり、バカにしている/されている人を見たことがあったりする経験から、「こういうことをするとバカにされるのだ」と学習することも多い。その経験がある人は、嘲笑されることの恥ずかしさ、みじめさ、嫌な気持ちを知っているからこそ、親切心で教えてくれようとする。

ただ、「笑われる」「バカにされる」「誰もそんなことしない」ようなことは、「いけない」「おかしい」こととは別物なのではないか。

みんながやっている。
誰もやっていない。
みんなに合わせないと悪く言ってくる人がいる。

そういう同調圧力で、周りと違うことを堂々とやるのが難しい世の中になっている。そうしてその道に参入しづらくなり、少数派は更に少数派になっていく。多数派が「普通」として権限を握る。
しかし、少数派であることが、バカにされるほどおかしいことだろうか?

人に言われたわけじゃなく、自分で何かを「おかしい」と判断したとき、それは近所の小学生(「普通」とは何か① 知識量の話に登場)のように「見たことがない、身近にそんな人はいない、珍しい=おかしい」と安直に結びつけてしまっている可能性がある。
自分の知識が足りないだけで、世の中では特に珍しいことではないかもしれない。
実際に珍しい物事だとしても、「珍しい」と「おかしい」は必ずイコールで結べるものではない
希少価値が高いもの、秀でたものである場合もあれば、特別良いわけでも悪いわけでもなく選択肢のひとつ、というだけの場合もある。

「そういう人もいる」「そういう考え方、やり方もある」と考えるだけで、全てが肯定される。

(もちろん、危険思想だとか犯罪だとか、命に関わることや迷惑行為、間違っていることについては話が別。裸族でない私たちは露出してはいけないし、みんなが気持ちよく暮らせるための法や倫理を守ることは大切だし、誤りは正すべき。それを大前提としたうえで、個々の価値観や考え方や感覚や習慣や趣味嗜好や人生の選択についてのおはなし。)

「知らない、珍しい=おかしい」ではなく、「そういうものもあるんだ」と新しい情報を吸収したり、「自分は同意できないけど、そういう考え方する人もいるんだな」と存在を否定せず受け入れられる心の余裕があると、固定観念や偏見を持つこともなく、人間関係も悪くならず、生きやすいと思う。

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ここまでのことをまとめると、自分の中の「普通」という固定観念を壊して許容範囲を広げるために必要なのは、

  • 自分の感覚はあくまで主観であることを自覚する
  • 知識量を増やす
  • 沢山のことを経験する
  • 誰かから聞いた話を鵜呑みにしない
  • 人目を気にしない
  • なんでもかんでも否定せず、「それもアリ」と受け入れてみる

ということになる。

全てを完全にクリアできたら、恐らく許容範囲は無限に広がると思う。が、そんな完璧な人間はなかなか存在しないだろう。
しかし、全てとはいかなくても、いくつか気をつけるだけで、だいぶ世の中の見え方が変わってくると思う。

まずは、初めて見るもの、自分にとって珍しいものを「変だ」と感じたら
自分が無知なだけなのでは?
自分の許容範囲が狭いだけなのでは?」と、一旦立ち止まる冷静さがあるといい。


いろんな物事を許容できる世の中なら、みんな幸せになれる。

 

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まぁこの記事だって筆者の主観なんですけれども。