「私、白黒つけたいタイプなんです」
と言う人がいる。
ハッキリ答えを出してスッキリしたい気持ちはわかる。
怪しいのに決定的証拠が出ずにのうのうと生きている人の罪を暴きたい! とか。
白黒つけるとは、そういうことだ。物事について、有罪か無罪か・是か非かをハッキリさせること。
しかし、「白黒つけることこそ正義!」「ハッキリすべき!」という思い込みにとらわれ、何もかも強引にカテゴリ分けしようとする人もいる。全てを善人と悪人に、敵か味方に。この世に分類できないものなどないと信じているのだ。
そうやって無理やり間違った答えを出しても、スッキリするはずが、余計なイライラを生み出してしまう。
せっかく白黒つけるなら、正しくつけてほしい。
- 間違った答えを出しがちな理由1:対象のくくりがデカい
- 間違った答えを出しがちな理由2:異なる2つに無理やり白黒を割り振る
- 間違った答えを出しがちな理由3:白でも黒でもないものに白黒を割り振る
- 本当に白黒つけるべきことなのか今一度ご確認を
間違った答えを出しがちな理由1:対象のくくりがデカい
評価対象を単純化しすぎ問題
大抵の場合、白黒つけようとする対象が大雑把すぎる。
例えばこんな感じ。
「いつも真っ当な意見を言う彼を信用していた。
でも、あんなことをされたから絶交。
もう彼の言うことは信じない。
彼を高く評価する人や擁護する人とも距離を置く」
白黒つけたがりの性格だと、なあなあな関係を許せず、切るときはバッサリと切る。
昨日まで白と評価していた人を、今日から黒にする。
普段「いつも真っ当な意見を言う」人を、今日からは信用しない。
この判断は正しいのか?
「人」を単位として見ると、「あんな奴の意見に賛成するの?」なんてことを言いがち。
ひとりの人間の中には白い部分も黒い部分もある。
ある分野では秀でていても、他の部分に問題があったりする。
憧れの人が間違ったことを言ったら?
死刑囚が描いた素晴らしい絵を、高く評価してはいけない?
「人」全体を評価対象として白黒つけるのは不可能。
部分ごとに判断するべきなのだ。
対象を大きくすると、誤った答えを出してしまう。
総合判断に真っ黒や真っ白はあり得ない
もちろん、総括的に判断して「この人にはもう付き合いきれない」と結論を出すこともあるだろう。
そんなとき、付き合う人=白、付き合わない人=黒 と考えるのは危ない。
総括的な判断なのだから、今まで一度も善行をしたことがない極悪人でもない限り、真っ黒な人などそうそういない。
「いつも真っ当な意見を言う人だが、あんなことをするのは許せない」
「悪い人じゃないんだけど、ああいうところが我慢の限界」
というとき、それは「あんなこと」「ああいうところ」という部分が許せないわけで、いつもは「真っ当な意見を言う人」であり「悪い人じゃない」。
自分にとって許せない項目の重みが大きいから付き合いをやめるとしても、その人の白い部分がゼロというわけではないはず。
だから「人」自体、その存在を黒とするのはやめたほうがいい。
「人」だけでなく、「組織」「国」なども同じ。一部の問題への怒りを全体に向けるべきではない。
とは言っても、「正直、この人には全然いいところが見つからない」と思うこともあるかもしれない。
それでもその人全体を黒と考えないほうがいい理由を次に書いてみる。
「この人は黒」という先入観が正誤をねじ曲げる
「付き合いきれない人・嫌いな人・許せない人=黒」というように人全体にレッテルを貼ると、その人がやることなすこと、容姿までも、全てが気に食わなくなってしまう。
人権、存在自体を否定するようになる。
問題部分とは無関係のことで「ブサイク」「タヒね」など、どんな暴言を吐いても許されると勘違いしてしまう。
タレントの辻希美さんが、新鮮な苺に練乳をかけただけで叩かれた例もある。通夜へ大きなリボン&ミニスカにギャルメイクで参列するなど、過去には辻さん自身の行動に炎上の原因があったかもしれないが、過去に問題があった人なら何を叩いてもいい、という考え方は間違っている。
また、黒とみなした人が正しいことや凄いことをしても、認められなくなってしまう。
その人に忠告されると、忠告自体は的確でも素直に聞き入れられなくなる。
その人がいいことをすると、「いい人ぶりやがって」「偽善者」「裏がある」などと、どうにかして悪者にしようとしてしまう。
性格の悪い人がコンテストで優勝したら、性格が悪いことと、有能であることは切り分けて評価すべきなのに「あんな奴が称賛されるのは許せない、無効にしろ」などと言い出したりする。
「嫌いな人だから落選」などと、もし自分が言われたらどう感じるだろう? ちゃんと作品を見て正当な評価をしてくれと主張したくなるはず。
正誤や評価をねじ曲げてはいけない。ねじ曲げるような白黒のつけ方は、間違っている。
屁理屈を言い出す一因になる
大食いタレントのギャル曽根さんが、濃いスープのラーメンに替え玉を追加し、味を薄めて完食したことを「ズル」と批難する人たちがいるとかいないとか。
ハードルをわざわざ上げての成功は果たしてズルなのか。
アンチだからこそイチャモンをつけたくなるのだ。もし自分の好きな人が似たことをしたら称賛するのでは?
そうやって、誰がやったか・誰が言ったかに重きをおいて判断すると、正しい答えを出せなくなる。
世の中にすさまじい屁理屈を言う人がいるのは、
「黒を打ち負かさねば」
「黒側が間違っていることを証明せねば」
「自分は白だから、黒と同意見であってはならない」
と思い込むのが原因だ。
黒いレッテルを貼った相手が実際に間違っているならともかく、相手が正しい場合、ちんぷんかんぷんな反対意見を主張し始める。相手が変われば自分の主張も変わる。はたから見るととても滑稽だ。
「人」ではなく「物事」を見れば「普段の彼の言動は嫌いだが、今言ったことは正しい」と判断できる。
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間違った答えを出しがちな理由2:異なる2つに無理やり白黒を割り振る
「こっちが白なら、あっちは黒」という思い込み
白黒つけたがる人は、答えが「どちらも黒」のときでも無理やり白と黒に分けようとする。
例えば、
Aさんはやるべきことをやらず、Bさんにもっともな注意を受けたが、それでもやらない。
腹を立てたBさんがAさんを殴り、大怪我を負わせた。
この場合、AさんBさんのどちらが白で、どちらが黒か?
決めるのは無理だ。
これは「Aさん」「Bさん」というくくりで白と黒を割り振るべきではない。
やるべきことをしなかった。しかるべき注意をした。言うことを聞かなかった。暴力をふるった。これらを別個に評価するべきで、どちらか1人だけを白、他方を黒とはできない。
「あなたは誰の側に付くの?」「どっちの味方?」などと言いがちなら、「人」を単位として見る癖がついてしまっているかも。
争っている2人が、無理やり白黒つけたがる性格だと、とても厄介だ。
「相手側の主張も一理ある」
「気持ちはわかるが、あなたの態度も悪かった」
などと指摘されれば、
「ああそうですか、あなたはあっちの味方なんですね!」
と怒ってしまう。
自分が黒とみなされたと思い込んでしまうのだ。
自分のことを批判する人は全て敵で、相手側の味方なのだと決めてかかる。
(批判とは、悪口のことではない。批判とは何か - gatamaro-note)
しかし、こっちが黒だからあっちは白、とは限らない。お互いに態度が悪かったなら、態度に関しては両方が黒だ。
指摘してくれた人は、相手側にも全く同じ指摘をしているかもしれない。どちらの肩も持たず、中立な立場から、それぞれの良いところ悪いところを冷静に判断してくれているのではないか。そんな人を敵と思い込むのは損だ。
しかし白黒つけたがる性格だと、「中立の立場」も許せなかったりする。絶対にどこかに属するのが当然と思っているため、ハッキリどちらかの側につかないなんてズルい、優柔不断だと考えてしまうのだ。
どちらにも非があるのに一方の肩だけを持つよう迫るのは正しいことだろうか?
誤った白黒判断のせいで本人は余計にイライラが募り、問題をややこしくして、周囲にも迷惑をかける。
芸能人の不倫が報道されると、不倫した男性よりも、妻子ある男をたぶらかしたとして不倫相手の女性のほうが叩かれやすい傾向がある。そんなとき、
「なぜ女性ばかり叩かれるのかな、妻子がいるのに他の女に手を出した男性のほうが悪くないですか?」
という意見が出ると、
「女に非はないって言いたいんですか!?」
と騒ぐ人がいる。
一方が黒なら他方は白であるという思い込みで、勝手にそう読み取ってしまう。
女に非がないという意味合いは少しも含まれていない。
「男性のほうが悪い」という言い方が「女性は悪くない」という意味とは限らない。
どちらも悪いのに片方「ばかり」叩かれていることに疑問を抱いているだけだ。
もっと言えば、報道だけでは全てを知ることができないので、第三者に叩く権利はない。当事者しか知らない事実があるかもしれない。判断材料を持たない赤の他人が、どちらのほうが悪い、誰が1番悪いなどと憶測で言うものではない。しかし「不倫は黒」という短絡的思考で、会ったこともない人を裁こうとする人の多いこと。
一方だけが悪いとは限らない。どっちもどっち、どちらも黒という状況は珍しくない。
必ず白と黒に分けなければならない、という決まりはない。
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間違った答えを出しがちな理由3:白でも黒でもないものに白黒を割り振る
「白以外は全て黒」という思い込み
白黒つけることにとらわれすぎると、自分の考え方や好きなものを白、それ以外のものを黒と考えてしまい、趣味嗜好が異なる他人のことを受け入れにくくなっていく。
「みんな違ってみんないい」という考え方ができず、善悪や正誤ではない、どちらを選んでもいいことにまで、「白と黒」を無理やり割り振ってしまう。
また、「他人も同じように『白以外のものは全て黒』と考えているのだ」と思い込み、自分が否定されているように感じる場面が多くなる。
相手にそんなつもりはないのに、存在しない敵意を受けた気になって勝手に傷つき、怒り出す。
Twitterにこんな内容のツイートがあった。
「普通の手術は麻酔をするのが当然なのに、出産になると『なぜ無痛分娩なんかを選んだのか』とよく訊かれる。痛いのが怖いのはおかしいことだろうか」
それに対し、
「私は普通分娩でしたが!? 痛いほうを選んだ私はおかしいですか!?」
と憤るリプライ。
冷静によく読めば、元のツイートは普通分娩を否定しているわけではない。無痛分娩を否定されることに対して意見を述べているだけだ。
しかし、「話し手は白とするもの以外全て黒とみなしている」と決めてかかる考え方では「無痛分娩を肯定=普通分娩を否定」と受け取ってしまうので、自分が否定されたと思い込んで怒ることになる。
そしてそもそも、普通分娩こそ白、無痛分娩は黒と信じている人が「なぜ無痛分娩なんかを選んだのか」と攻撃するのだ。
もちろんリスクなど、本人が一番よく考えたうえで決定したことだろう。個人の選択の自由だ。他人がとやかく言うことではない。
極端な考え方しかできないと、屁理屈のような言いがかりをつけるようになってしまう。
以下も、「白以外は全て黒とみなされている」と思い込んだことが原因の、実際にあった被害妄想だ。
・「夫婦別姓が認められればいいのに」「苗字を変えた女性たち全員をバカにするんですか?」
・「LGBTも普通に受け入れられる世界がいいね」「俺は男と付き合うなんて生理的に無理なんですけど」
話題のなかで肯定されているものと正反対のものは否定されている、と思い込む。
選択肢が増えたらいいな、不都合のある人がもっと自由になれればいいなという話であって、そう感じていない人にまで変化を迫っているわけではないのに。
・「マニュアル車を紹介するなんて。ノーマル車をバカにしてるんですか?」
・「DTMは実機ありきなのにプラグインをオススメするなんて。実機をナンセンスと印象づけるのはやめてください」
・「あの人、良い人だよね」「私は良い人じゃないってこと?」
何かが褒められているとき、話題に出てこないものは否定されていると思い込む。
・「あなたはつぶあん派なんだね。私はこしあんが好き」「ケンカ売ってます?」
自分の好みと違うものが選ばれたとき、自分の感性がおかしいと言われているように感じてしまう。何が好きかで優劣が決まるわけではないのに。
・「おじさんが女の子と接するときは、自分の娘だと思えばキモいことをせずに済む」「私は父親に虐待されてましたが? 全ての父親が娘を大事にすると思わないでください」
・「色彩補正されている邦画がとても少ない(無いとは言っていない)」「○○っていう映画を知らないんですか?」
少数派には当てはまらない一般論や例文を出されたとき、認められない。
あくまでも傾向の話をしている場合、例外の存在を否認しているわけではないのに。
2つ以上の異なるものがあるとき、必ずひとつだけが正しくて、他が間違っているとは限らない。
犬派もいれば猫派もいる。
みんなでワイワイ楽しくやるのが好きな人もいれば、ひとりで黙々と作業するのが好きな人もいる。
意見や方法が違っても、どちらにも一理ある、どちらでも上手くいく場合がある。
どちらでもいい、どちらを選んでも間違いではないことで、無駄に敵対する必要はない。
正誤だとか、良し悪しのないこともあるのだ。
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本当に白黒つけるべきことなのか今一度ご確認を
無理にカテゴリ分けして誤った答えを出すと、無駄な争いや憎しみを生むだけ。
ハッキリ白黒つかない物事が、世の中には沢山あるのだ。
それは能力がなくて白黒つけられないのではなく、白黒つけないのが正解ということ。
複雑なことを考えられず、ザックリ分かりやすく短絡的な結論を出すことこそ、思考力の低下に繋がるのではないだろうか。
いいことはいい。悪いことは悪い。それを判断しようとすることは間違いではない。
正しく白黒つけられるようになれば、生活の中で嫌悪感を抱く回数は減るはずだ。