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一を見て十を知ったつもりになっていないか

一を見て十を知ったつもりになってませんか?


誰かが作業をしている途中経過だけを見て、
「なんでそんなやり方してるの?」
「こうやったほうが絶対いいのに」
と簡単に言う人がいる。

それで役立つ情報を教えてくれるなら有り難い。しかし大抵の場合は期待外れ。『そんな方法は最初に試すことであって、それがダメだったから他の方法を試しているのだということがなぜ判らないかな……』と思うようなことしか教えてくれない。

想像力を働かせ、あらゆる可能性を考えれば、上から目線で「こんなことも知らないの?」なんて発言をしてしまうこともないはず。

 

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2018年2月、福井県で大雪が降った。沢山の車が24kmに渡って立ち往生し、自衛隊がスコップで除雪作業を行う様子が報道された。
それに対し、Twitterやネット記事のコメント欄には
「重機で除雪したほうが絶対早いのに」
「なんで除雪車使わないんだよ」
というようなコメントの山。

重機を使えるものなら使うに決まっている。使えない何かしらの理由があるんだろうな、と考えることはできないだろうか。
雪というのはとても重い。手作業で除雪なんて、相当な重労働だろうし、時間もかかる。
好きでスコップを使っているわけではないことなど明白。

そういった批難の声への対処か、ネット記事には後で「重機が入れる場所では重機を使って人命救助や除雪作業にあたっています」という説明文も追加されていた。そりゃそうだよね。

 

2015年には、茨城県で鬼怒川が決壊した。
地面だったはずのところが、流れの速い大きな川に変貌。
その濁流の中で電柱につかまる男性と、かろうじて流されずに建っている一軒の家の中に取り残されたご家族の様子がテレビで生中継されていた。

ネットでは電柱にしがみつく男性を「電柱おじさん」と呼び、心配していた。
素人目からすれば、「電柱おじさんを早く助けてあげて」と思うような光景。しかし自衛隊は、家の中の人々を先に救助した。
Twitterでは批難の嵐。
「どう見ても電柱おじさんを優先すべきなのに」
自衛隊には電柱おじさんが見えてないのか!」
しかし、やっと電柱おじさんが救助されるときには、家はもう流されていた。
すると今度は、「自衛隊の判断すごい!」という称賛ツイートがタイムラインに沢山流れていく。
日頃から訓練している自衛隊の判断を、素人の一般市民がどうこう言うもんじゃなかった、というようなことを呟いてる人が何人もいた。
まさにその通り。なんの専門知識もない人が画面越しに見ているよりも、現場のほうがずっと情報が多く、状況をきちんと把握しているはずだ。

大変失礼で縁起でもない話だが、もしその順番で救出を試みて失敗したとする。それでも、何も知らない他人が「それ見たことか」などと罵倒していいことではない。救出できなかったことが必ず誰かのミスであるとは限らないからだ。
正しい判断をしているのに、場所や風向きやその他いろいろな状況で「どんなに全力を尽くしても、どうしようもない」こともあるだろう。誰かを責めたところで、誰も救われない。

納得できないことについて遺族が説明を求めるならともかく、知識も経験もなく状況を理解していない赤の他人が感情だけで騒ぎ立てるのはなんと無益なことだろう。

「だって知らなかったんだもん、しょうがないじゃん」
という言い訳で、誰かを罵倒することは許されない。
詳細を知らない者に、誰かを罵倒する権利はないのだ。
よく知れば、非の打ち所がない相手かもしれないのだから。

 

サッカー観戦にも似たような光景がある。
サッカーファン全員ではなく一部の話だが、選手と会ったこともない一般人が、
「監督はなんであの選手を使わないんだ! 最近すごく調子いい選手なのにここで出さないなんて頭が悪い!」
「どこに蹴ってんだバカ」
などと怒鳴っていて驚くことがある。

※サッカーが大好きで熱くなってしまうのはわかる。
一緒に喜んだり悔しがったりと、チームとサポーターが一体になって感情を共有するのは素敵なことだ。

本気で貶したいわけではなく、上手くいかない悔しさから思わず口をついて出る悪態なのかもしれない。深く考えず軽い気持ちで発言しているだけだという人もいるだろう。

しかし、
「バカかよ」
「下手くそ」
というような、他人を悪く言うをつけないよう気をつけたい。


人間は、ただガッカリしただけの場合でも、「ムカつく」と言葉を発すると本当にムカついてくる生き物らしい。言葉の影響力は絶大なのだ。ガッカリしたりショックを受けたときに「ムカつく」と言う癖をつけてしまうと、落ち込んだ気持ちを怒りに発展させ、無駄にムカついてしまう。

また、「悔しい」とか「残念」という概念を理解できず、そのすっきりしない気持ちを誰かのせいにして「こいつが悪い! 」と攻撃することでしか消化できない人もいる。
「悔しいときはキレるもの」「ガッカリ=自分の気分を害した犯人がいる」というような間違った認識で覚えてしまっているのだ。
異なる言葉の意味を一緒くたにせず、きちんと物事を分類して考えられるようになる必要がある。(→ 「言葉の意味をきちんと分類しよう - gatamaro-note」)

サッカーに限らず、日常生活で誰かが失敗したときも同じ。
「下手くそ」「馬鹿野郎」などと悪気なく反射的に口にしてしまった言葉であっても、言われた人は傷つき、発言者の評判は落ち、要らぬ争いを生む可能性がある。

脳は主語を理解しないので、他人への悪口も自分のこととして受け取りストレスになる、という話もある。
アメリカの名門大学の教授によれば、自分や仲間はもちろん、赤の他人が暴言を吐かれるのを見ただけでも、人間の処理能力や創造性は落ちるとのこと。
その場にいない人に対しての罵倒であっても、誰も得をしないどころか損しかないのである。

「思わず言っているだけ」と軽く考えて悪口を癖にすると思わぬ損を招くというお話。

以下、「一を見て十を知ったつもり」の話に戻る。

監督だって、勝ちたくて、最善を尽くしているはず。
選手と直接会ったことすらない人よりも、1番そばにいて選手のコンディションを知っている監督のほうが判断材料を持っているはず。
見ている側は過去の試合から選手の特性を知り尽くしているつもりでも、過去は過去。リアルタイムの情報はない。
プライバシー保護もしくは戦略のために世間に公表していないことがあるかもしれない。今現在の選手の怪我や精神状態など、さまざまな考慮が必要だ。そういったことを何もわからない状態で、人を悪く言ってしまうのはどうなんだろうか。

選手だって、90分以上走り回るわけで、鍛えているとはいえ後半になれば疲れも溜まるだろう。
アウェイならば、相手チームの応援が多くて精神的に辛いというだけでなく、慣れない気候に苦しむこともあるだろう。
俯瞰で試合中継を観ている私たち一般人と違って、迫ってくる対戦相手の間から全方位を見回して味方にボールをパスするのはとても難しいことだろう。全ての選手がイーグルアイみたいな特殊能力を持っているわけではないのだ。

当然、その辺りは体を鍛えたり練習したりコミュニケーションなどで精度を上げるのだろうが、日頃からトレーニングしている選手でさえ難しいことは、訓練していない一般人にはもっと難しいはず。
災害時の自衛隊の判断と同じように、同じ状況に立ったことのない一般人が、自分でできないことにあーだこーだ とやかく文句をつけるのは虚しい。

誰かを責めるのではなく、
「俺だったら、こう考えるな~」
「こっちにパスできてたらな~」
までに留めておくのは如何だろうか。


✦  ✦  ✦

「どうしてこの人は、こんなやり方をしてるんだろう」
「なぜ、こうしないんだろう」
と思ったときには、その言葉通り、「なぜだろう」と理由を考えてみるとよい。
自分だったらこうすると思うけど、この人はこのやり方を選んだ。どうしてだろう、理由があるんだろうか、どんな理由だろうか、と想像を膨らませるのだ。

大体のことは、
何か事情があるんだろうな
何か理由があったんだろうな
と思うだけで落ち着く。
何か理由があるのだろうという発想ができなかったり、相手を認めたくなくて「こいつがそこまで考えているわけがない」と思うから、急激に頭に血が上って怒り狂ったり、誰かを批難したり、馬鹿にしたりする。


これは、口出しをするなという話ではない。
悪戦苦闘している人を見て、「まさかあの方法は知っていて既に試したに違いない」と思い込んで何もアドバイスしなかったが、実は「あの方法」をご存じなかった……ということも起き得る。
親切に助けの手を差し伸べられるなら、それはとても良いことだ。

しかしそこで嘲るように
「なんでそんなやり方してんの?」
「こんなことも知らないの?」
と言うのは、相手も不快にさせるし、発言者の印象も悪い。

見下したり偉ぶったりするのは、本人にとっては「自分が上である」という自信やその主張なのかもしれないが、見ている側としてはそれは痛々しくて恥ずかしい姿でしかない。
それがあろうことか「そんなこと当然知ってますけど……」なんて返されようものなら恥の上塗りである。

「(念のため確認だけど)あの方法はもう試した?」と訊くだけでよいのだ。
上から目線になる必要は全くない。
それで相手が「は? 当たり前じゃん何言ってんの? 馬鹿にしてんの?」とか言ってきた場合には、人の親切を素直に受け取れない残念な人だな、と自分の中で評価して、必要ならば疎遠になればよい。自分がその人のような「残念な人」の側にならないよう、気をつけるだけ。


✦  ✦  ✦

簡単に批難をするのは、「自分の見ているものが全てだと思い込んでいます」と宣言しているようなものだ。

「もう既に試したのかも」
「何か理由あってのことかもしれない」
という想像ができれば、頭ごなしに相手を否定することはない。

場合によっては、特に理由もなく、批判されても仕方ないこともあるだろう。しかし必ずしもそうとは限らない。大抵のことには理由がある。

勝手に誤解をして、激怒したり罵倒したりといった無駄な労力を使うのは自分にとっても損だし、相手にも大きな迷惑。
何も悪くない人のことを悪く言わないように気をつけよう。

 

 

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こういう「だ・である」みたいな言い切り型の文章というだけで「高圧的」「上から目線」と感じる人もいるっぽいので、今からでも ですます調で書くように変更したほうがいいのか迷い中である。

ただ、威張ってないのに威張ってるように感じてしまったり、純粋な言葉なのに嫌味に思えてしまったりするのは受け取り方にも問題があるので、「こう感じる人がいるから……」とそれに合わせすぎてもあまりよろしくないと思うし、困ったものであるー。